織田信長が殺された本能寺の変を盗賊の石川五右衛門を主役にして書いてみました。「藤吉郎伝」の続編としてお楽しみ下さい
遅い春
2
小野屋に顔を出すと、お澪は夢遊の顔を見るなり驚いた。目を丸くして、何も言わずに夢遊の手を引っ張って、屋敷の裏にある茶室に連れて行った。
戸を締め切って、誰もいない事を確認してから、「あなた、大丈夫だったの?」とようやく、口を開いた。
「大丈夫だが、一体、どうしたんじゃ?」
「あなたが柏原の砦にいたって噂を聞いて、あたし、とても心配だったのよ。藤兵衛様に聞いても、あなたがどうなったのか教えてくれないし、柏原の砦は皆殺しにされたんでしょ? よく無事だったわネ」
お澪は夢遊の顔をマジマジと見つめた。
夢遊は思わず、お澪を抱き締めた。
「柏原の砦が皆殺しにされたって?」
夢遊はお澪を抱いたまま、不思議そうな顔をして聞いた。
「そういう噂よ、伊賀の忍びは全滅したって。石川五右衛門も殺されたって」
「信長が流した嘘の噂じゃ。砦は皆殺しになんかなっておらん。信長の兵が攻め込んだ時はモヌケの殻だったはずじゃ。比自山の砦だってそうじゃ。信長の兵をさんざ悩ませておいて、最後にはオサラバしたんじゃよ」
「そうだったの‥‥‥よかった」
お澪は夢遊から離れると、改めて、夢遊の姿を眺めて、嬉しそうに笑った。
夢遊も嬉しそうに笑ったが、「ちょっと待て」と考え顔になった。「お澪殿、どうして、わしが石川五右衛門じゃと知っておるんじゃ?」
「新堂の小太郎様から聞いたの。あたし、ビックリしちゃったわ。あなたがあの有名な盗賊だなんて信じられなかった。でも、我落多屋さんの性格からすると、あなたが五右衛門様なら、納得がいくと思ったわ」
「そうか、バレちまったらしょうがねえ。だが、お澪殿、この事は内緒にしておいてくれ」
「分かってるわよ。誰にもしゃべってません」
「オブリガード(ありがとう)」
二人は向かい合って座ると、改めて、お互いの顔を見つめて笑いあった。
「しかし、小太郎の野郎、何でもペラペラしゃべりやがって、許せん」
「小太郎様もつい、しゃべってしまったのよ。あたしが夢遊様の事をしつこく聞いたから、つい、ポロッとネ。小太郎様も砦は皆殺しになって、五右衛門様も死んだかもしれないって言ってたわ」
「あの野郎、嘘ばかり付きやがって」
「でも、よかったわ、あなたが無事で」
「わしが盗賊と分かっても、お澪殿の気持ちは変わらんのか?」
「変わらないわよ。前よりも、ずっと好きになったみたい」
「へえ、そなたは変わってるのう」
「小田原にも、あなたみたいな人がいるのよ。盗賊じゃないけど、北条氏を陰で守ってる凄い人がネ」
「風摩の小太郎か?」
「そう。あなた、知ってるの?」
「会った事はねえが噂は聞いてる。お澪殿は風摩小太郎と会った事あるのか?」
「ないわ。でも、この間、小田原から来た商人がここに来たわ。与兵衛に誰って聞いたら、小声で風摩って言ったの。だから、風摩の人たちがあちこちにある小野屋に時々、顔を出してるって事は分かったけど、小太郎様がこんな所まで来る事はないみたい」
「そうか‥‥‥北条氏は信長とはどんな関係なんじゃ?」
「一応、信長様の機嫌は取ってるみたいだけど、深い付き合いはないわ。ただ、信長様が関東に進出して来る事は警戒してるみたいネ」
「もし、信長の兵が関東まで攻め込んだらどうなる?」
「そうなれば、風摩の人たちが大勢、ここに来るんじゃないの?」
「信長の命を狙ってか?」
「そう思うわ」
「じゃろうな。まだ、風摩は信長の命を狙ってはおらんのじゃな?」
「狙ってないでしょ。北条氏は関東以外の事には興味ないのよ」
「興味ねえか‥‥‥」
「アッ、そうだ、お茶を入れるわネ」
夢遊はお澪の点てたお茶を飲みながら、信長の事を愚痴っていた。
「ここだけの話じゃが、わしは信長は狂ってるんじゃねえかと思ってるんじゃ」
「そうネ」とお澪はうなづいた。「確かに伊賀攻めはひどかったわ。いくら、忍びが憎いからって、見境もなく皆殺しにするなんてひどすぎるわ」
「上野の小野屋も燃えちまったな。皆、無事じゃったのか?」
「ええ。すぐに逃げたから大丈夫だったわ」
「よかった。帰りが遅かったんで、戦に巻き込まれちまったのかと心配したぞ」
「ごめんなさい。小田原から女将さんが来たので、一緒に播磨の方に行ってたのよ」
「播磨? 藤吉郎に会って来たのか?」
「いいえ、会えなかったわ。でも、姫路のお城下にお店を出す事は許していただいたわ」
「そうか、会えなかったか‥‥‥女将さんていうのはどんな人なんだ?」
「尼さんよ。あたしも跡を継いだら、尼さんにならなければならないの」
「勿体ねえ事じゃな」
「仕方ないのよ。あたしが選ばれちゃったんだから。女将さんはね、あたしの叔母さんなの。もうすぐ五十になるし、あたしが早く、お仕事を覚えなくちゃなんないんだけど、お店がいっぱいあるから大変だわ」
「いつ頃、跡を継ぐんだ?」
「さあ、後一、二年経ってからじゃない」
「そうなったら、小田原に帰るのか?」
「多分、そうなるでしょうネ。あたし、ここに来る前、堺のお店に一年いて、その後、京都に一年いたの。そして、ここでしょ。多分、ここも一年よ。そしたら、今度は姫路に行くかもしれない」
「一年という事は来年の三月までか?」
「多分」
「お澪殿が姫路に行ったら、わしも行こう。ただ、小田原までは付いて行けんな」
「あら、どうして? 小田原に新しいお店を出せばいいじゃない。小田原にも貧しい人たちは大勢いるのよ」
「我落多屋はやれるじゃろうが、五右衛門として北条氏の領内で仕事はできんじゃろう。風摩を敵に回したくはねえ」
「そうか‥‥‥でも、大丈夫よ。北の方で暴れればいいのよ」
「北か‥‥‥陸奥(ムツ)に出羽じゃな。お澪殿が小田原に行ったら考えてみよう」
夢遊はその夜、お澪の屋敷に泊まった。お澪に会って気が緩んだのか、昼近くまで、ぐっすりと眠りこけていた。お澪が運んでくれた朝飯を食べ、鼻歌を歌いながら我落多屋に帰ると藤兵衛が頭から湯気を出して怒っていた。
「大旦那様、いい加減になさった方がいいですよ。大旦那様とお澪様の噂で城下は持ち切りなんですよ。ここと長浜を行き来してる者は多いんですからね、おかみさんに聞こえても知りませんよ」
「噂になってるのか?」
「当たり前でしょ。二階から大声で叫んだり、夫婦気取りでフラフラしてれば、すぐに噂になりますよ。そうでなくても、大旦那様は目立つのに」
「そうか、まずいのう。機嫌を取りに長浜に行かんといけんな」
「ちゃんと行って下さいよ。いつも、わたしが悪者になるんですからね」
「分かった、分かった」
夢遊が二階に行こうとすると、藤兵衛は夢遊の袖を引いて、「雑賀の孫一が現れました」と小声で言った。
「奴がまた来たのか?」
「それが、鉄砲隊を率いて、堂々とやって来たんですよ」
「なんじゃと? 一体、何を考えてるんじゃ」
「噂ではどうも、奴は信長に降伏して部下になるために挨拶に来たとか」
「奴が降伏?」
「どうも、噂は本当らしいですね。孫一の家来が堀久太郎の屋敷に出入りしています」
「そうか、奴が降伏したのか‥‥‥それで、今、どこにいるんじゃ?」
「玉木町の紀州屋です」
「分かった」
「行くんですか?」
「有名な孫一殿の面を拝見しにな」
「気を付けて下さいよ」
「うむ。小太郎の奴を連れて行くわ」
新堂の小太郎は大津屋にいなかった。
池田町に行くと小太郎はすでに有名になっていて、居場所はすぐに分かった。遊女たちの話によると、小太郎は夢遊の弟を名乗って豪遊しているという。
『紅葉亭』という遊女屋で小太郎はススキと野菊という二人の遊女を相手に御機嫌だった。孫一が来たと言っても驚くわけでもなく、夢遊の事を兄貴と呼んで歓迎した。裸同然の二人の娘とイチャつきながら酒を飲み続けていた。
夢遊は無理やり、小太郎を連れて遊女屋を出た。
「どうして、わしが一緒に行かなけりゃならねんだ?」小太郎はブツブツ言いながらついて来た。
「孫一に世話になったんじゃろ?」
「まあ、世話になったには違えねえが‥‥‥奴は今頃、何しに来たんじゃ?」
「それを確かめに行くのよ」
「まあ、いいか。奴もなかなか面白え奴じゃからな。一緒に飲もう」
紀州屋は孫一の家来でいっぱいだった。小太郎が孫一に会いたいと言うと、孫一は簡単に顔を出した。
以前、安土に来た時とは違い、白い革袴(カワバカマ)に赤い陣羽織という派手ないで立ちで、口ひげだけ残して、無精ひげも綺麗に剃ってあった。小太郎の顔を見て、懐かしそうに、「おぬしもここにおったか?」と再会を喜んだ。
「伊賀は大変じゃったらしいの」と小太郎の事も心配したが、「悪いが今、ちょっと忙しいんじゃ。夜になったら来てくれんか」と言った。
「分かった。わしは今、池田町にいるんじゃが、また、来るわ」
「ナニ、遊女屋におるのか。それなら、わしの方から行くわ。確か、この道を真っすぐ行った所じゃったな?」
「おう。さすが、遊ぶ所は知っておるのう」
「ナニ、惚れた女子がおってのう。実を言うとその女子に会いたくなって、こうしてやって来たというわけじゃ」
「なんじゃ?」と小太郎は首をかしげた。
「詳しい話は後じゃ。『祇園』で待っていてくれ」
夢遊は小太郎と一緒に池田町に戻ると祇園に入った。祇園は紅葉亭の向かいの店だった。小太郎はさっそく、馴染みの葛城(カツラギ)を呼んで酒の用意をさせた。夢遊の馴染みの鈴鹿も嬉しそうに顔を出したが、考え直して帰る事にした。昼間っから遊女屋で遊んでいたとお澪に知られるのを恐れていた。
銀次が今日、引っ越しをしているのを思い出して、善次郎が住んでいた職人町に向かった。
おときが手拭いをかぶって部屋の掃除をしていたが、銀次の姿は見当たらなかった。
「大旦那様、ありがとうございます」
おときは顔を赤くして頭を下げた。
「銀次はどうしたんじゃ?」
「今朝、二日酔いで頭が痛いって愚図ってましたけど、あたしが怒ったらジュリアを捜しに出掛けました」
「ほう。おめえ、わりとしっかりしてるな。銀次とうまく行くかもしれんのう」
「そうですか。でも、あたし、まだ、お仕事、続けたいし‥‥‥」
「まあ、二人でよく考えるんじゃな」
「はい‥‥‥」
夢遊は家の中を一通り眺めるとおときと別れた。
お澪の所に戻りたかったが、お澪も今日は関東からの荷が届いたといって忙しそうなので、仕方なく、我落多屋に帰った。
「どうでした?」とおさやが聞いて来た。
「おめえ、銀次とおときの事、知ってたか?」
「銀次さんとおときさんがどうかしたんですか?」
「一緒になりそうじゃ」
「エッ、そうなんですか? 知りませんでした。でも、この前、あたし、銀次さんに誘われましたよ」
「何て?」
「一緒に多賀神社にお参りに行こうって」
「奴は何を考えてるんじゃ?」
「さあ? 大旦那様の真似してるのかしら」
「なんじゃと?」
「みんな、真似してますよ。そのマンタ(襟巻き)を」
「そうらしいの」
夢遊は自分の首に巻きつけた浅葱(アサギ)色の布切れを眺めた。
「あたしも真似してもいい?」
「おう、あったけえぞ。藤兵衛はどうした?」
「お茶室です。天王寺屋の御隠居さんが突然、お見えになったんです」
「了雲(リョウウン)殿か?」
おさやはうなづいた。
「相変わらず、元気な爺様じゃな」
「行かれますか?」
「いや。わしに用があって来たわけでもあるめえ。藤兵衛が得意になってお茶を点てているのを邪魔する事もねえ。淡路島からの荷物は届いたか?」
「はい。届いてます」
「蔵の方か?」
「はい、そのまま、蔵に入ってます」
「手伝ってくれ」
夢遊は日暮れまで、おさやと一緒に淡路島で奪い取った盗品の整理をしていた。
「小太郎様はどうでした?」とおさやが急に聞いて来た。
「どうとは?」
「何か変ですよ」
「確かに浮かれ過ぎてるようじゃの」
「小太郎様、この間、泣いてました」
「小太郎が泣いてた? いつじゃ?」
「このお店に来た時、旦那様に頼まれて、小太郎様の後をつけて行ったんです。大津屋さんに入って行くのを見て、お部屋の場所も調べた方がいいと思って、裏口から忍び込んだんです。そしたら、小太郎様、部屋の中で泣いてたんですよ。その時は地味な薬売りの格好だったんです。でも、その後、大旦那様みたいな格好をして遊び回ってます。一体、何があったんです?」
「そうか、奴が泣いてたか‥‥‥奴はな、伊賀の戦で妻と子を亡くしたんじゃ。十五の女の子、十一の男の子、六つの女の子と三人の子供がいたらしい」
「そうだったんですか‥‥‥」
「奴は家族を失い、死ぬつもりなのかもしれんのう‥‥‥悲しみをごまかすために、あんなにはしゃいでるのかもしれん」
「辛いんでしょうネ」
夢遊は暗くなってから『祇園』に向かった。
孫一はすでに来ていて、小太郎と一緒に馬鹿騒ぎをしていた。以前、孫一と一緒に安土に来た三人の若者も、お目当ての遊女を隣にはべらせて浮かれていた。
小太郎は夢遊を見ると、「わしの兄貴じゃ」と孫一に紹介した。
遊女たちは、「夢遊様だわ」とキャーキャー騒ぎ出した。
「ほう、おぬしの兄貴はなかなかの人気者じゃのう」
「この安土にいて、兄貴を知らねえ奴はモグリじゃ」
「ほう、そいつは頼もしいのう」
小太郎のお陰で夢遊はスンナリとその場に溶け込み、孫一と飲み交わした。
「わしはのう、本願寺の門徒じゃ。ここの殿様と長年、戦って来たが、この度、めでたく和睦する事に決めたわ」
孫一は唐糸を抱きながら豪快に笑った。
「それはよかったですな。わしもそなたの噂はよく聞いておる。噂では本願寺が信長と講和を結ぼうが、雑賀の孫一だけは最後まで信長と戦うじゃろうと聞いておったが、あれは間違いじゃったのか?」
孫一が怒るかどうか、夢遊は試してみたが、孫一はニヤッと笑っただけだった。
「ナニ、気が変わったんじゃよ。わしは先月、コッソリとここに来た。華麗な天主を見上げているうちに、わしの中の何かが弾けたんじゃ、パーンとな。本願寺の事ばかり見て来たお陰で、世間の事が見えなくなっていたんじゃよ。本願寺にいれば居心地もよかったしのう。しかし、時代は変わった。上人様は石山を追い出され、雑賀に来た。そこまでは良かったが、そこからが大騒ぎじゃ。あっちこっちから、わけの分からん奴らがやって来て、上人様の取りっこをしておる。戦の時、前線に立って来たわしらをのけ者にしてのう。今の本願寺はもう、ここの殿様と戦う力など残ってはおらん。わしが孫一であり続けるためには、鉄砲を撃っていなくてはならんのじゃ。本願寺が戦をやらねえなら、戦をやる所に行くだけじゃ」
「それで、ここの殿様に頭を下げたのか?」
「まあな、上人様に下げていた頭をここの殿様に下げただけじゃ」
孫一はそう言ったが、少し傷ついているようだった。顔を歪めて、一息に酒をあおった。
「孫一は何をやっても孫一か‥‥‥」
夢遊は隣に来ていた鈴鹿に酒盃を差し出し、酒を注いでもらった。
「兄貴、難しい話はもうやめじゃ。せっかく、安土まで出て来たんじゃから、孫一を充分に楽しませてやろうぜ」
「そうじゃのう。野暮な事を聞いてすまなかったな。今夜はわしの奢りじゃ。久し振りに大騒ぎするか」
「そう来なくっちゃな」と小太郎は手を打って喜んだ。
夢遊は孫一を大広間に連れて行き、大勢の遊女を呼び集め、あちこちから御馳走を取り寄せ、孫一を驚かせた。次から次へと現れる綺麗所に目を奪われ、次から次へと現れる豪華な料理に腰を抜かしそうになった。
「本願寺でも贅沢な思いをした事はあるが、これ程の贅沢は初めてじゃ」
孫一は夢遊の桁(ケタ)外れな豪快さに呆れた。
「生きていてよかった」と小太郎も遊女に囲まれながら、大きな海老をほお張っていた。
「わしらだけでは食い切れん。我落多屋の連中を呼んで来てくれ」
夢遊は店の者に頼んで、皆を呼んだ。
藤兵衛が天王寺屋了雲を連れてやって来た。番頭の久六も手代の孫三、与太も皆、ニコニコしながらやって来た。扇屋の後家の家にいた新五も銀次を連れてやって来た。そして、お澪までがおさやと一緒に来たのには驚いた。
「どうしても遊女屋という所を見たいと言うんでな」と大黒頭巾(ダイコクズキン)をかぶった了雲はニタリと笑うと、遊女の方へスタコラと歩いて行った。
藤兵衛も嬉しそうにニヤニヤしながら了雲の後を追った。
店の者が呼びに行った時、藤兵衛と了雲はお澪の屋敷にいた。夢遊が遊女屋にいる事を知ってしまったお澪は、夢遊の豪遊振りを見に来たのだった。
夢遊はお澪を歓迎し、遊女たちを紹介した。遊女たちもお澪を歓迎し、様々な芸を披露した。飲めや歌えと騒いでいたが、お澪とおさやがいるので、男たちは遊女たちとふざける事ができなかった。お澪もその事に気づいて、「楽しかったわ」と一時(イットキ、二時間)程経つと夢遊にコッソリと言った。
「送って行こう」と夢遊は言ったが、「ダメよ。主役が消えたら白けるわ。お月様も出てるし、おさやさんがいるから大丈夫よ」とお澪はおさやと一緒に帰って行った。
夢遊は門の所まで送った。
「さすが、やる事が大きいわネ。でも、お支払いが大変でしょうに」
「ナニ、天王寺屋の御隠居に払ってもらうさ」と夢遊は平気な顔をして言った。
「エッ?」お澪はおさやと顔を見合わせて驚いた。
「御隠居が前から欲しがっていたお茶入れが手に入ったんじゃ」
「成程ネ」とお澪は笑った。
「でも、他の女なんて抱いたら許さないわよ」ときつく睨んだ。
お澪の隣でおさやがクスクスと笑っていた。
「会った事はねえが噂は聞いてる。お澪殿は風摩小太郎と会った事あるのか?」
「ないわ。でも、この間、小田原から来た商人がここに来たわ。与兵衛に誰って聞いたら、小声で風摩って言ったの。だから、風摩の人たちがあちこちにある小野屋に時々、顔を出してるって事は分かったけど、小太郎様がこんな所まで来る事はないみたい」
「そうか‥‥‥北条氏は信長とはどんな関係なんじゃ?」
「一応、信長様の機嫌は取ってるみたいだけど、深い付き合いはないわ。ただ、信長様が関東に進出して来る事は警戒してるみたいネ」
「もし、信長の兵が関東まで攻め込んだらどうなる?」
「そうなれば、風摩の人たちが大勢、ここに来るんじゃないの?」
「信長の命を狙ってか?」
「そう思うわ」
「じゃろうな。まだ、風摩は信長の命を狙ってはおらんのじゃな?」
「狙ってないでしょ。北条氏は関東以外の事には興味ないのよ」
「興味ねえか‥‥‥」
「アッ、そうだ、お茶を入れるわネ」
夢遊はお澪の点てたお茶を飲みながら、信長の事を愚痴っていた。
「ここだけの話じゃが、わしは信長は狂ってるんじゃねえかと思ってるんじゃ」
「そうネ」とお澪はうなづいた。「確かに伊賀攻めはひどかったわ。いくら、忍びが憎いからって、見境もなく皆殺しにするなんてひどすぎるわ」
「上野の小野屋も燃えちまったな。皆、無事じゃったのか?」
「ええ。すぐに逃げたから大丈夫だったわ」
「よかった。帰りが遅かったんで、戦に巻き込まれちまったのかと心配したぞ」
「ごめんなさい。小田原から女将さんが来たので、一緒に播磨の方に行ってたのよ」
「播磨? 藤吉郎に会って来たのか?」
「いいえ、会えなかったわ。でも、姫路のお城下にお店を出す事は許していただいたわ」
「そうか、会えなかったか‥‥‥女将さんていうのはどんな人なんだ?」
「尼さんよ。あたしも跡を継いだら、尼さんにならなければならないの」
「勿体ねえ事じゃな」
「仕方ないのよ。あたしが選ばれちゃったんだから。女将さんはね、あたしの叔母さんなの。もうすぐ五十になるし、あたしが早く、お仕事を覚えなくちゃなんないんだけど、お店がいっぱいあるから大変だわ」
「いつ頃、跡を継ぐんだ?」
「さあ、後一、二年経ってからじゃない」
「そうなったら、小田原に帰るのか?」
「多分、そうなるでしょうネ。あたし、ここに来る前、堺のお店に一年いて、その後、京都に一年いたの。そして、ここでしょ。多分、ここも一年よ。そしたら、今度は姫路に行くかもしれない」
「一年という事は来年の三月までか?」
「多分」
「お澪殿が姫路に行ったら、わしも行こう。ただ、小田原までは付いて行けんな」
「あら、どうして? 小田原に新しいお店を出せばいいじゃない。小田原にも貧しい人たちは大勢いるのよ」
「我落多屋はやれるじゃろうが、五右衛門として北条氏の領内で仕事はできんじゃろう。風摩を敵に回したくはねえ」
「そうか‥‥‥でも、大丈夫よ。北の方で暴れればいいのよ」
「北か‥‥‥陸奥(ムツ)に出羽じゃな。お澪殿が小田原に行ったら考えてみよう」
夢遊はその夜、お澪の屋敷に泊まった。お澪に会って気が緩んだのか、昼近くまで、ぐっすりと眠りこけていた。お澪が運んでくれた朝飯を食べ、鼻歌を歌いながら我落多屋に帰ると藤兵衛が頭から湯気を出して怒っていた。
「大旦那様、いい加減になさった方がいいですよ。大旦那様とお澪様の噂で城下は持ち切りなんですよ。ここと長浜を行き来してる者は多いんですからね、おかみさんに聞こえても知りませんよ」
「噂になってるのか?」
「当たり前でしょ。二階から大声で叫んだり、夫婦気取りでフラフラしてれば、すぐに噂になりますよ。そうでなくても、大旦那様は目立つのに」
「そうか、まずいのう。機嫌を取りに長浜に行かんといけんな」
「ちゃんと行って下さいよ。いつも、わたしが悪者になるんですからね」
「分かった、分かった」
夢遊が二階に行こうとすると、藤兵衛は夢遊の袖を引いて、「雑賀の孫一が現れました」と小声で言った。
「奴がまた来たのか?」
「それが、鉄砲隊を率いて、堂々とやって来たんですよ」
「なんじゃと? 一体、何を考えてるんじゃ」
「噂ではどうも、奴は信長に降伏して部下になるために挨拶に来たとか」
「奴が降伏?」
「どうも、噂は本当らしいですね。孫一の家来が堀久太郎の屋敷に出入りしています」
「そうか、奴が降伏したのか‥‥‥それで、今、どこにいるんじゃ?」
「玉木町の紀州屋です」
「分かった」
「行くんですか?」
「有名な孫一殿の面を拝見しにな」
「気を付けて下さいよ」
「うむ。小太郎の奴を連れて行くわ」
新堂の小太郎は大津屋にいなかった。
池田町に行くと小太郎はすでに有名になっていて、居場所はすぐに分かった。遊女たちの話によると、小太郎は夢遊の弟を名乗って豪遊しているという。
『紅葉亭』という遊女屋で小太郎はススキと野菊という二人の遊女を相手に御機嫌だった。孫一が来たと言っても驚くわけでもなく、夢遊の事を兄貴と呼んで歓迎した。裸同然の二人の娘とイチャつきながら酒を飲み続けていた。
夢遊は無理やり、小太郎を連れて遊女屋を出た。
「どうして、わしが一緒に行かなけりゃならねんだ?」小太郎はブツブツ言いながらついて来た。
「孫一に世話になったんじゃろ?」
「まあ、世話になったには違えねえが‥‥‥奴は今頃、何しに来たんじゃ?」
「それを確かめに行くのよ」
「まあ、いいか。奴もなかなか面白え奴じゃからな。一緒に飲もう」
紀州屋は孫一の家来でいっぱいだった。小太郎が孫一に会いたいと言うと、孫一は簡単に顔を出した。
以前、安土に来た時とは違い、白い革袴(カワバカマ)に赤い陣羽織という派手ないで立ちで、口ひげだけ残して、無精ひげも綺麗に剃ってあった。小太郎の顔を見て、懐かしそうに、「おぬしもここにおったか?」と再会を喜んだ。
「伊賀は大変じゃったらしいの」と小太郎の事も心配したが、「悪いが今、ちょっと忙しいんじゃ。夜になったら来てくれんか」と言った。
「分かった。わしは今、池田町にいるんじゃが、また、来るわ」
「ナニ、遊女屋におるのか。それなら、わしの方から行くわ。確か、この道を真っすぐ行った所じゃったな?」
「おう。さすが、遊ぶ所は知っておるのう」
「ナニ、惚れた女子がおってのう。実を言うとその女子に会いたくなって、こうしてやって来たというわけじゃ」
「なんじゃ?」と小太郎は首をかしげた。
「詳しい話は後じゃ。『祇園』で待っていてくれ」
夢遊は小太郎と一緒に池田町に戻ると祇園に入った。祇園は紅葉亭の向かいの店だった。小太郎はさっそく、馴染みの葛城(カツラギ)を呼んで酒の用意をさせた。夢遊の馴染みの鈴鹿も嬉しそうに顔を出したが、考え直して帰る事にした。昼間っから遊女屋で遊んでいたとお澪に知られるのを恐れていた。
銀次が今日、引っ越しをしているのを思い出して、善次郎が住んでいた職人町に向かった。
おときが手拭いをかぶって部屋の掃除をしていたが、銀次の姿は見当たらなかった。
「大旦那様、ありがとうございます」
おときは顔を赤くして頭を下げた。
「銀次はどうしたんじゃ?」
「今朝、二日酔いで頭が痛いって愚図ってましたけど、あたしが怒ったらジュリアを捜しに出掛けました」
「ほう。おめえ、わりとしっかりしてるな。銀次とうまく行くかもしれんのう」
「そうですか。でも、あたし、まだ、お仕事、続けたいし‥‥‥」
「まあ、二人でよく考えるんじゃな」
「はい‥‥‥」
夢遊は家の中を一通り眺めるとおときと別れた。
お澪の所に戻りたかったが、お澪も今日は関東からの荷が届いたといって忙しそうなので、仕方なく、我落多屋に帰った。
「どうでした?」とおさやが聞いて来た。
「おめえ、銀次とおときの事、知ってたか?」
「銀次さんとおときさんがどうかしたんですか?」
「一緒になりそうじゃ」
「エッ、そうなんですか? 知りませんでした。でも、この前、あたし、銀次さんに誘われましたよ」
「何て?」
「一緒に多賀神社にお参りに行こうって」
「奴は何を考えてるんじゃ?」
「さあ? 大旦那様の真似してるのかしら」
「なんじゃと?」
「みんな、真似してますよ。そのマンタ(襟巻き)を」
「そうらしいの」
夢遊は自分の首に巻きつけた浅葱(アサギ)色の布切れを眺めた。
「あたしも真似してもいい?」
「おう、あったけえぞ。藤兵衛はどうした?」
「お茶室です。天王寺屋の御隠居さんが突然、お見えになったんです」
「了雲(リョウウン)殿か?」
おさやはうなづいた。
「相変わらず、元気な爺様じゃな」
「行かれますか?」
「いや。わしに用があって来たわけでもあるめえ。藤兵衛が得意になってお茶を点てているのを邪魔する事もねえ。淡路島からの荷物は届いたか?」
「はい。届いてます」
「蔵の方か?」
「はい、そのまま、蔵に入ってます」
「手伝ってくれ」
夢遊は日暮れまで、おさやと一緒に淡路島で奪い取った盗品の整理をしていた。
「小太郎様はどうでした?」とおさやが急に聞いて来た。
「どうとは?」
「何か変ですよ」
「確かに浮かれ過ぎてるようじゃの」
「小太郎様、この間、泣いてました」
「小太郎が泣いてた? いつじゃ?」
「このお店に来た時、旦那様に頼まれて、小太郎様の後をつけて行ったんです。大津屋さんに入って行くのを見て、お部屋の場所も調べた方がいいと思って、裏口から忍び込んだんです。そしたら、小太郎様、部屋の中で泣いてたんですよ。その時は地味な薬売りの格好だったんです。でも、その後、大旦那様みたいな格好をして遊び回ってます。一体、何があったんです?」
「そうか、奴が泣いてたか‥‥‥奴はな、伊賀の戦で妻と子を亡くしたんじゃ。十五の女の子、十一の男の子、六つの女の子と三人の子供がいたらしい」
「そうだったんですか‥‥‥」
「奴は家族を失い、死ぬつもりなのかもしれんのう‥‥‥悲しみをごまかすために、あんなにはしゃいでるのかもしれん」
「辛いんでしょうネ」
夢遊は暗くなってから『祇園』に向かった。
孫一はすでに来ていて、小太郎と一緒に馬鹿騒ぎをしていた。以前、孫一と一緒に安土に来た三人の若者も、お目当ての遊女を隣にはべらせて浮かれていた。
小太郎は夢遊を見ると、「わしの兄貴じゃ」と孫一に紹介した。
遊女たちは、「夢遊様だわ」とキャーキャー騒ぎ出した。
「ほう、おぬしの兄貴はなかなかの人気者じゃのう」
「この安土にいて、兄貴を知らねえ奴はモグリじゃ」
「ほう、そいつは頼もしいのう」
小太郎のお陰で夢遊はスンナリとその場に溶け込み、孫一と飲み交わした。
「わしはのう、本願寺の門徒じゃ。ここの殿様と長年、戦って来たが、この度、めでたく和睦する事に決めたわ」
孫一は唐糸を抱きながら豪快に笑った。
「それはよかったですな。わしもそなたの噂はよく聞いておる。噂では本願寺が信長と講和を結ぼうが、雑賀の孫一だけは最後まで信長と戦うじゃろうと聞いておったが、あれは間違いじゃったのか?」
孫一が怒るかどうか、夢遊は試してみたが、孫一はニヤッと笑っただけだった。
「ナニ、気が変わったんじゃよ。わしは先月、コッソリとここに来た。華麗な天主を見上げているうちに、わしの中の何かが弾けたんじゃ、パーンとな。本願寺の事ばかり見て来たお陰で、世間の事が見えなくなっていたんじゃよ。本願寺にいれば居心地もよかったしのう。しかし、時代は変わった。上人様は石山を追い出され、雑賀に来た。そこまでは良かったが、そこからが大騒ぎじゃ。あっちこっちから、わけの分からん奴らがやって来て、上人様の取りっこをしておる。戦の時、前線に立って来たわしらをのけ者にしてのう。今の本願寺はもう、ここの殿様と戦う力など残ってはおらん。わしが孫一であり続けるためには、鉄砲を撃っていなくてはならんのじゃ。本願寺が戦をやらねえなら、戦をやる所に行くだけじゃ」
「それで、ここの殿様に頭を下げたのか?」
「まあな、上人様に下げていた頭をここの殿様に下げただけじゃ」
孫一はそう言ったが、少し傷ついているようだった。顔を歪めて、一息に酒をあおった。
「孫一は何をやっても孫一か‥‥‥」
夢遊は隣に来ていた鈴鹿に酒盃を差し出し、酒を注いでもらった。
「兄貴、難しい話はもうやめじゃ。せっかく、安土まで出て来たんじゃから、孫一を充分に楽しませてやろうぜ」
「そうじゃのう。野暮な事を聞いてすまなかったな。今夜はわしの奢りじゃ。久し振りに大騒ぎするか」
「そう来なくっちゃな」と小太郎は手を打って喜んだ。
夢遊は孫一を大広間に連れて行き、大勢の遊女を呼び集め、あちこちから御馳走を取り寄せ、孫一を驚かせた。次から次へと現れる綺麗所に目を奪われ、次から次へと現れる豪華な料理に腰を抜かしそうになった。
「本願寺でも贅沢な思いをした事はあるが、これ程の贅沢は初めてじゃ」
孫一は夢遊の桁(ケタ)外れな豪快さに呆れた。
「生きていてよかった」と小太郎も遊女に囲まれながら、大きな海老をほお張っていた。
「わしらだけでは食い切れん。我落多屋の連中を呼んで来てくれ」
夢遊は店の者に頼んで、皆を呼んだ。
藤兵衛が天王寺屋了雲を連れてやって来た。番頭の久六も手代の孫三、与太も皆、ニコニコしながらやって来た。扇屋の後家の家にいた新五も銀次を連れてやって来た。そして、お澪までがおさやと一緒に来たのには驚いた。
「どうしても遊女屋という所を見たいと言うんでな」と大黒頭巾(ダイコクズキン)をかぶった了雲はニタリと笑うと、遊女の方へスタコラと歩いて行った。
藤兵衛も嬉しそうにニヤニヤしながら了雲の後を追った。
店の者が呼びに行った時、藤兵衛と了雲はお澪の屋敷にいた。夢遊が遊女屋にいる事を知ってしまったお澪は、夢遊の豪遊振りを見に来たのだった。
夢遊はお澪を歓迎し、遊女たちを紹介した。遊女たちもお澪を歓迎し、様々な芸を披露した。飲めや歌えと騒いでいたが、お澪とおさやがいるので、男たちは遊女たちとふざける事ができなかった。お澪もその事に気づいて、「楽しかったわ」と一時(イットキ、二時間)程経つと夢遊にコッソリと言った。
「送って行こう」と夢遊は言ったが、「ダメよ。主役が消えたら白けるわ。お月様も出てるし、おさやさんがいるから大丈夫よ」とお澪はおさやと一緒に帰って行った。
夢遊は門の所まで送った。
「さすが、やる事が大きいわネ。でも、お支払いが大変でしょうに」
「ナニ、天王寺屋の御隠居に払ってもらうさ」と夢遊は平気な顔をして言った。
「エッ?」お澪はおさやと顔を見合わせて驚いた。
「御隠居が前から欲しがっていたお茶入れが手に入ったんじゃ」
「成程ネ」とお澪は笑った。
「でも、他の女なんて抱いたら許さないわよ」ときつく睨んだ。
お澪の隣でおさやがクスクスと笑っていた。
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