織田信長が殺された本能寺の変を盗賊の石川五右衛門を主役にして書いてみました。「藤吉郎伝」の続編としてお楽しみ下さい
トンビ
2
夢遊が命懸けで、毛利の軍勢を眺めていた頃、安土に明智十兵衛の軍勢がやって来た。
荒れ果てた城下を眺め、十兵衛は顔をしかめながら城へと向かった。
暴れ回っていた湖賊たちは慌てて船へと逃げて行ったが、船は去る事なく、成り行きをじっと見守っていた。
十兵衛は引き連れて来た兵を展開して、城攻めの態勢に入った。摠見寺を本陣とし、二の丸と天主のある本丸を囲むように兵を配置した。
城を守っている木村次郎左衛門に城を明け渡すように使いを送ったが、次郎左衛門は断って来た。十兵衛は仕方なく、総攻撃を命じた。半時(一時間)余りの猛攻のすえ、次郎左衛門他、城内にいた兵は皆、討ち死にして果てた。
十兵衛は天主に登り、最上階から四方を眺め回し、天下を我が物にした事を実感していた。飛び上がって、大声で叫びたい心境だったが、家臣たちの見守る中、それはできなかった。
ふと、夢遊のとぼけた顔が浮かび、夢遊だったら、こんな時、どんな態度を取るのだろうかと考えてみたが、十兵衛には見当もつかなかった。難しい顔をしたまま、キラキラと輝く琵琶湖の景色を楽しむと満足そうにうなづいて、最上階から降りて行った。
四階の屋根裏部屋にある一万枚の黄金を見て、無事だった事を喜び、気前よく家臣たちに分け与えた。
黄金は地下蔵だけでなく、四階の屋根裏部屋にも一万枚置いてあった。信長に案内されて天主内を見物した者は皆、その黄金を目にしていた。夢遊もそれを見ていたが、地下蔵に三万枚余りもあるのを目にして、四階の一万枚もここに移したのだろうと思っていた。
黄金の蓄えられていた地下蔵の扉も打ち壊されたが、そこに黄金があった事を知っている者はいないし、抜け穴も発見されなかった。
湖賊は消えたが、今度は明智の軍勢が城下にあふれた。十兵衛の命令が徹底しているため、城下を荒らし回る事はなかったが、兵たちは空いている屋敷に入り込んでは、思い思いに休息していた。
我落多屋に残っている者たちは鎧を脱ぎ、武器を隠して、いつもの格好に戻ると店を片付けている振りをしていた。
明智の武将が来て、「町の者は皆、逃げたと思っていたが、まだ、残っている者がおったとは驚きじゃな」と声を掛けて来た。
「逃げ遅れてしまいまして、ずっと、隠れていたのでございます。うちはガラクタばかりで、大した物がないので、すぐに引き上げてくれたので助かりました」と藤兵衛が腰を低くして答えた。
「そうか。ひどい目に会ったのう。だが、もう大丈夫じゃ。城下は安全じゃから戻って来るようにと触れを出した。逃げた者も少しづつ戻って来るじゃろう。再建するのは大変じゃが、皆で力を合わせれば以前よりも立派な城下になる」
そう言うと武将は去って行った。
「もう大丈夫なのかしら?」とおさわが物陰から出て来て聞いた。
「さあ、分からんのう。藤吉郎殿が攻めて来れば、明智の軍勢はここから出て行く。そうなれば、今度は城まで荒らされる事じゃろう。お前たち女子は隠れていた方がいいぞ。見つかったら間違いなく、明智の兵に襲われる」
未(ヒツジ)の刻(午後二時頃)過ぎ、孫一の船が来たと新堂の小太郎が知らせて来た。
藤兵衛は小太郎と共に港に向かった。
港に着いた孫一の船は湖賊たちの船に囲まれていた。
孫一の船も湖賊たちの船も皆、『南無阿弥陀仏』と書かれた旗が風になびいている。
小舟に乗って孫一の船に渡った小太郎と藤兵衛は孫一に今の状況を説明した。
「ナニ、琵琶湖の湖賊など高が知れてるわ。わしらは荒海でさんざ暴れ回って来たんじゃ。鉄砲だってたっぷりとある。奴らに負けるものか」孫一は自信たっぷりに言った。
「しかしのう、敵は多いぞ。しかも、長谷川屋敷から黄金の入った箱を運び出す所が、奴らの船から丸見えじゃ。怪しんで襲って来る可能性が高い」
藤兵衛は心配顔で忠告したが、孫一は鼻で笑った。
「心配するな。わしらの力を見せてくれるわ。ところで、五右衛門はどうしたんじゃ?」
「京都におる。どさくさに紛れて働いている」
「ほう、安土の黄金を配下に任せて、京都で何を狙ってるんじゃ?」
「信長が持ち出した名物のお茶道具じゃ」
「お茶の道具の方が、黄金一万枚より値打ちがあると言うのか?」
「黄金の方が値打ちはある。しかし、名物のお茶道具というのは皆、この世に一つしかない物じゃ。信長が死ねば、その値打ちは益々上がって行く」
「ふん。わしは黄金の方がいいわ」
孫一は強きだった。さっそく、長谷川屋敷の見える城の裏側に船を回した。
湖賊の船の間を抜けながら、孫一の船は移動した。湖賊たちが船の上から、何者じゃと睨んでいたが、孫一は不敵な面構えで船首に仁王立ちしていた。
「あそこから運び降ろせばいいんじゃな?」
孫一は長谷川屋敷を眺めながら、藤兵衛に聞いた。
「降ろすのは簡単じゃ。あの通りに並ぶ屋敷は皆、空き家じゃからな。ただ、問題は長谷川屋敷じゃ。明智の軍勢がたむろしている。奴らに見つかると面倒じゃ」
「ふむ。となると夜、忍び込んで下まで降ろすしかねえのう」
「あるいは、明智の軍勢が去るのを待つかじゃな」と小太郎は言った。
「そうのんびりしてはおれん。今頃、雑賀は大騒ぎじゃ。信長に敵対していた者が大喜びして、わしらの領地を攻めているに違えねえ。さっさと黄金を奪って帰らなけりゃなんねえのよ」
その夜、孫一は鉄砲をかついだ五十人の兵を率いて、長谷川屋敷に忍び込んだ。
驚いた事に長谷川屋敷も荒らされていた。黄金を天主から移動した時は無事だったが、あの後、湖賊たちが忍び込んで暴れたようだった。抜け穴のある茶室も荒らされ、飾り物は奪われていたが、畳の下の抜け穴には気づかなかった。
藤兵衛と小太郎が屋敷内に潜入して調べると、メチャクチャに散らかっている部屋の中に雑兵(ゾウヒョウ)が三人、気持ちよさそうに寝ているだけで明智の武将はいなかった。藤兵衛と小太郎は三人を殺して、井戸の中に投げ捨てた。
孫一らは無事に黄金の箱を湖岸まで運び、夜が明けるのを待った。
朝靄(モヤ)の中に船影が近づいて来るのが見えると、孫一は鉄砲を振って合図をした。
船から小舟が近づいて来て、湖岸に着いた。黄金を積み込んだが、一回で運ぶ事はできなかった。三往復してようやく、すべてを船に積む事ができた。しかし、その頃になると朝靄も消え、湖賊たちが気づき、一隻二隻と船が近づいて来た。やがて、孫一の船は湖賊たちに囲まれた。
「わしらは行くが、おぬしはどうする?」と孫一は小太郎に聞いた。
「港で待っててくれるか? ジュリアを連れて行く」
「この様子じゃと、港に入れるかどうか分からんぞ」
「そうじゃな。いいわ、後で取り行くわ」
「そっちの分け前はどうする?」と孫一は藤兵衛に聞いた。
「どこに上陸するんじゃ?」
「大津じゃ」
「そこで待っている」
「よし、それじゃア、行くぞ」
孫一は小舟に乗って、船に向かった。
湖賊たちは無言で孫一を見ていたが、孫一が船に乗ると湖賊の一人が声を掛けて来た。
「何者じゃ?」
「雑賀の孫一じゃ」
「何を運んだ?」
「弾薬じゃ」
「弾薬を盗んだのか?」
「いや、日向守(ヒュウガノカミ、明智十兵衛)殿よりいただいたんじゃ」
「ほう。孫一殿はまた、寝返ったのか?」
「寝返ってはおらん。わしは最初から本願寺のために働いておるんじゃ」
湖賊らの船から、ドッと笑い声が起こった。
「本願寺のために働いておるのはわしらじゃ。本物の孫一殿なら、琵琶湖に来て、わしらに挨拶しねえはずはねえ。この偽者めが!」
藤兵衛と小太郎は湖畔で顔を見合わせた。
「雲行きが怪しくなって来たぜ」と小太郎は言った。
「危ねえな」と藤兵衛も唸った。
「わしは本物の孫一じゃ」と孫一は叫んでいたが、湖賊らは孫一の船に対して鉄砲を撃って来た。
孫一も負けずに鉄砲を撃ちながら、湖賊らの船の間を突破した。
「さすがじゃのう。逃げられるかもしれねえ」
二人は山の上に登って、湖上の戦いを見物した。
孫一の船は敵の囲みをうまく脱した。逃がすものかと湖賊の船はあちこちから集まって来て数を増し、孫一の船を追いかけて行った。
孫一の逃げた方向が悪かった。正面に細長い島があり、左に曲がらなければ逃げられない。左に方向を変えたが、すでに遅く、また、敵に囲まれてしまった。
孫一の船は湖賊の船に体当たりしながらも突き進んで行った。しかし、四方から鉄砲を撃たれ、火矢を打ち込まれ、ついに、燃え始めてしまった。
「あ~あ、黄金が沈む‥‥‥」と小太郎は悲鳴を上げながら、湖畔に駈け下りた。
「やはり、やられてしまったか‥‥‥」藤兵衛は溜め息をつきながら、首を振った。
火に包まれた船はゆっくりと湖中へ沈んで行った。
湖賊たちが喚声を上げているのが聞こえて来た。
「勿体ねえなア、畜生め!」小太郎は悪態を付きながら、何度も、石ころを琵琶湖に投げつけていた。
「ピーヒョロロ」とトンビが馬鹿にしたように鳴きながら、琵琶湖上を飛び回っていた。
その頃、備中では睨み合いが、まだ続いていた。昨日、一日中、睨み合い、今日になっても睨み合っている。
夢遊は昨日のうちに敵が中山に攻めて来るに違いないと覚悟をしていたが、敵はまったく動かなかった。
昼過ぎになって敵は動き始めた。いよいよ、攻めて来るのかと皆、緊張して敵の動きを見守った。敵の軍勢は西へと撤退して行った。
夢遊らは助かったと手を取り合って大喜びした。
藤吉郎は今朝、暗いうちから少しづつ兵を岡山城へと移動させていた。毛利の軍勢が全員、引き上げるのを見届けてから全軍を退去させた。
毛利の撤退を確認すると、夢遊らは京都を目指した。新しい敵となる明智十兵衛の状況を調べなくてはならなかった。藤吉郎を勝たせるため、正確な情報をつかんで知らせなければならなかった。
七日、藤吉郎の軍勢は暴風雨の中を突っ走って、夜になって姫路城に着いた。
八日は一日、休養を取って兵を休め、九日の早朝、姫路を発ち、十二日には摂津の富田(トンダ)に陣を敷いた。
夢遊らが一足先に、『羽柴殿が毛利と和睦し、大軍を率いて弔い合戦に来る』との噂を流したため、十兵衛の指揮下にいた有岡城主の池田勝三郎、茨木城主の中川瀬兵衛、高槻城主の高山右近らが藤吉郎に合流した。さらに、大坂にいた信長の三男、信孝と丹羽五郎左衛門も加わり、三万五千に膨れ上がった藤吉郎の軍勢は山崎へと向かった。
十三日の申(サル)の刻(午後四時頃)、雨の降りしきる中、合戦は始まった。
天王山東麓の円明寺川を挟んで、激しい攻防が繰り返された。必死の明智軍も手ごわかったが、兵力において倍以上の藤吉郎の軍が押しまくり、日が暮れる頃には明智軍は総崩れとなり敗走して行った。
十四日に十兵衛は落ち武者狩りにあって殺され、翌日、首は本能寺に晒された。
夢遊も大勢の見物人の中に紛れて見物したが、その首は半ば腐っていて、本人と見分ける事は困難だった。
夢遊がお澪と共に安土に帰ったのは、六月の十六日だった。
安土を出てから一月も経っていないのに、安土の城下は信じられない程、悲惨な有り様だった。
安土の象徴だった輝かしい天主がなかった。
天主だけでなく、本丸御殿も二の丸屋敷も焼け落ちていた。
町中は家という家が皆、破壊され、中には焼け落ちている物もあり、完全に廃墟と化していた。
我落多屋の看板もなくなっていたが、店も屋敷も何とか残っていた。
夢遊が二階を見上げるとマリアが手を振り、「お帰りなさい」と笑いながら叫んだ。
夢遊が手を振り返すと、新堂の小太郎とジュリアも顔を出した。
「やっと、帰って来たか。藤吉郎がやったらしいの」と小太郎は拳を振り上げた。
「一時は危なかったが、うまく行ったわ」と夢遊も拳を突き上げた。
藤兵衛がガラクタを踏み分けて出て来た。
「無事じゃったか?」と夢遊は店の中を覗いた。
「はい、何とか」と藤兵衛は笑いながら、ガラクタをまたいで来るおさやの手を引いてやった。
「お帰りなさいませ」とおさやは藤兵衛の隣で、ニコニコしながら夢遊を迎えた。
「おう、おめえも無事じゃったか。しかし、ひでえもんじゃな。一体、誰が天主を焼いたんじゃ?」
「昨日の夕方ですよ。突然、燃え出しましてね。一晩中、燃えていました。幸い、風がなかったからよかったものの、ここも危ない所でしたよ。どうも、北畠中将(チュウジョウ)殿のようです」
「信長の次男か?」
「ええ。城に入ったけど、城内はメチャメチャだったんでしょう。腹を立てて、火を点けたんでしょうかねえ」
「十兵衛がメチャメチャにしたのか?」
「いいえ。明智の軍勢が十四日の朝、引き上げてから、中将殿が十五日の昼過ぎに来るまで、城は無人状態だったんですよ。湖賊どもが城に潜入して、やりたい放題やってました」
「天主にも登ったのか?」
「ええ。一番上まで登って、大声で叫んでましたよ。城内にあった財宝はほとんど、明智が持って行ったので、奴らは金箔を押した襖(フスマ)絵やら、釘(クギ)隠しに使われている黄金やら、手当たり次第に剥がして持って行ったようです。中将殿が入った時にはそれこそ、何もなかったでしょう。中将殿が腹を立てるのも当然でしょうな」
「湖賊がやって来たのか‥‥‥」と夢遊は港の方を眺めた。
「湖賊って、本願寺の門徒なんでしょ?」とお澪が聞いた。
「らしいのう。長年の恨みを晴らしたんじゃろうな」
「凄い恨みだったのネ。城下を全滅にしちゃうなんて」
「本願寺だけじゃねえ。信長を恨み、浮かばれねえでいる者たちの霊が、奴らに乗り移ったのかもしれん」
「そうかもしれないわネ」
「それで、黄金はどうなったんじゃ?」
「残念な事に、湖賊たちにやられて、孫一の船は沈んでしまいました」と藤兵衛は申し訳なさそうに言った。
「ナニ、黄金が琵琶湖に沈んだのか?」
夢遊は驚いて、藤兵衛を見、そして、おさやを見た。
「はい‥‥‥三十箱ばかり」と藤兵衛は言った。
「三十箱? 残りの七十箱はどうした?」
「抜け穴の池の中に隠しておいて、湖賊らが消えた昨夜から今朝にかけて、運びました」
「ここにあるのか?」
「はい」
藤兵衛がガラクタをどけると中から、黄金の入った箱が現れた。
「七十箱というと二万一千枚か‥‥‥まずまずじゃな。よくやった」
夢遊は箱の中の黄金を手に取って眺め、満足そうにうなづいた。
「あたしの分け前はあるの?」
お澪が夢遊から黄金を取って聞いた。
「うむ。そなたにもやらなければなるめえな。世話になったからのう。十箱でどうじゃ?」
「あとの六十箱は?」とお澪は不満そうな顔をした。
「あとはみんな、南蛮寺に寄付するさ」と夢遊は黄金の箱をガラクタで隠した。
「なんですって?」
皆が同時に言って、夢遊を見つめた。
「みんな、寄付する?‥‥‥まさか、本気じゃないんでしょ?」と藤兵衛が目を点にして聞いた。
「もともと、マリアとジュリアが持って来た仕事じゃ。当然じゃろ?」
夢遊は真面目な顔をして皆を見回した。
藤兵衛は呆然としたまま、急に力が抜けたかのように崩れ落ちた。おさやが慌てて、支えたが支え切れずに、二人は倒れ込んでしまった。
お澪が急に笑い出した。
「あなたらしいわ」と言うと夢遊の手を引いて、無残な姿になった小野屋に連れて行った。
「あたしの十箱も寄付していいわ」とお澪は言った。
「そう言うと思っていた」と夢遊は笑った。
お澪は夢遊をかつての自分の屋敷に連れて行った。
床の間の飾り物は消え、襖は破れ、着物や書物が散らばり、お椀や酒のとっくり、腐りかけた食い物のカスまでもが散らかり、ハエが飛び回っていた。
お澪は縁側に腰を降ろすと、「やっと帰って来たわネ。あまりにも変わり果ててしまったけど」と屋敷の中を見回した。
「一人の男が死んで、その男が作った町が消え去ったというわけじゃな。その男を殺した男も殺された。坂本の城下も今頃、湖賊たちが暴れ回っておるじゃろうな」
「そうネ‥‥‥でも、湖賊たちが盗んだ物は一体、どこに行くのかしら?」
「多分、京都の我落多屋じゃろうな」
「あなたもまた、忙しくなるわネ?」
「ただ、残念なのは、信長の奴、名物のお茶道具のほとんどを本能寺に持って行ったらしいからのう。名物が信長と一緒に燃えちまったわ」
「大丈夫よ。燃える前にちゃんと、いただいたから」
「ナニ、本当か?」夢遊は驚いて、お澪を見つめた。
お澪は笑って、うなづいた。「そのへんは抜かりないわよ。今頃、幻庵(ゲンアン)様が目を細めて目利きをしてるでしょ。そのうち、こっちに流れて来るわよ」
「そうか、そいつはよかった。そういえば、十兵衛に虚堂(コドウ)の墨蹟(ボクセキ)を売ったが、無事であってくれればいいがのう」
「へえ、虚堂の墨跡を‥‥‥十兵衛様らしいわネ」
「十兵衛も天下を取ったのはたったの十二日だけじゃったのか‥‥‥可哀想じゃのう。今、思えば、風摩に躍らされただけじゃねえのか。本能寺に晒された首は何となく情けねえ面をしてたぞ。あれは本当に十兵衛の首なのかのう。どこか違うような気がしたが」
「気のせいよ」
「そうじゃな。天下を取った絶頂から一気に転落したんじゃからな。顔付きも変わるじゃろう」
夢遊はお澪と共に鴬燕軒に向かった。鴬燕軒も無残に荒らされているに違いないのに、お澪は風呂に入りたいと言って聞かなかった。夢遊も風呂に入って、サッパリしたい心境だったが、湯殿が無事であるとは考えられなかった。
ところが奇跡か、鴬燕軒は無事だった。辺り一面がメチャクチャに荒らされているのに、鴬燕軒だけが場違いのように、以前と変わらず、そこに残っていた。
「信じられん」と夢遊は『鴬燕軒』と掲げられた門をくぐって、屋敷内に入った。
どこにも荒らされた形跡はなかった。
「一体、どういう事じゃ?」と夢遊はお澪に聞いた。
「与兵衛が守ってくれたのよ」とお澪はニコッと笑った。
「小野屋の与兵衛か?」
お澪はうなづいた。
「どうして、与兵衛が店をほったらかして、ここを守るんじゃ?」
「あたしが頼んだのよ」
「ほう、あいつがのう。わしは苦手じゃったが、わりといい奴なんじゃな」
「うん。与兵衛はあれでも陰流の使い手でね、愛洲移香斎様を尊敬してるの。あたしの言う事は何でも聞いてくれたわ」
「成程のう。それで、奴はどこに行ったんじゃ?」
「気を利かせて、消えたんじゃないの」
「そうか」とうなづくと、夢遊は突然、「オブリガード(ありがとう)、与兵衛」と大声で叫んだ。
「デ・ナーダ(どういたしまして)」と遠くの方から返事が帰って来た。
夢遊とお澪は顔を見合わせて笑った。
湯殿に行くと、湯舟には丁度いい湯加減のお湯がたっぷりと入っていた。
「よく気が利く奴じゃな」
「ほんと」
二人は汚れた着物を脱ぎ捨てると湯舟に浸かった。
「ああ、気持ちいい」
お澪は湯の中で体を伸ばした。
「ここを守ったのは正解じゃったな。まるで、極楽のようじゃ」
夢遊は顔をこするとお澪を抱き寄せた。
お澪は夢遊の顔を覗き、ニヤニヤしながら、「あのネ、ほんとの事、教えてあげましょうか?」と言った。
「なんじゃ、ほんとの事とは?」
夢遊はお澪の乳房を抱いた。
「本能寺に晒された十兵衛様の首なんだけどネ、あれは偽物なの」
「何を言ってる。そなたがそんな事、知ってるわけがねえ。わしとずっと一緒にいたんじゃからな」
お澪は首を振った。
「最初からの約束だったの」
「何が約束なんじゃ?」
「十兵衛様、なかなか、決心しなかったでしょ。あの人、頭がいいから色々と計算して、自分が絶対に不利だって言い張っていたんですって。信長様を殺すのはいいけど、その後の事が問題だったの。藤吉郎様が攻めて来る事は予想できなかったらしいけど、十兵衛様は北陸にいる柴田様にやられると思っていたのネ。やられるのが分かっていて、信長様は殺せないって言ってたらしいわ。そこで、西之坊様は考えて、十兵衛様が柴田様にやられたら、助け出して小田原に連れて行くって約束したのよ。十兵衛様はもう一度、違った生き方をしてみようと決心して、ようやく、うなづいたの。今頃、小田原に向かってるはずよ」
「十兵衛が生きてる‥‥‥」夢遊はお澪の顔をじっと見つめた。
「十兵衛様は死んだのよ。別人になって新しい人生をやり直すんじゃない。あなたのように気ままに生きるのかもネ」
夢遊は顔を洗うと、「まったく、どうなってるんじゃ」と自分の頭をたたいた。
「風摩に翻弄(ホンロウ)されていたのは、わしのようじゃのう。まさか、信長の奴も生きてるんじゃあるめえな?」
「まさか。信長様は死んだでしょ。今更、出て来たって、もう手遅れよ。時代は信長様から藤吉郎様に移ってしまったわ」
「うむ、藤吉郎の天下じゃ‥‥‥奴がどんな世の中を作るか楽しみじゃのう」
「もう戦はいやだわ。平和な世の中にしてもらいたいわネ」
「そうじゃな」
夢遊は湯舟の中に顔を沈めるとお澪の体に抱き付いて行った。
その頃、弔い合戦に勝利した藤吉郎は大軍を率いて安土に来ていた。
焼け落ちた天主を見つめながら、涙をこぼし、「上様‥‥‥」とつぶやいた。
明智の武将が来て、「町の者は皆、逃げたと思っていたが、まだ、残っている者がおったとは驚きじゃな」と声を掛けて来た。
「逃げ遅れてしまいまして、ずっと、隠れていたのでございます。うちはガラクタばかりで、大した物がないので、すぐに引き上げてくれたので助かりました」と藤兵衛が腰を低くして答えた。
「そうか。ひどい目に会ったのう。だが、もう大丈夫じゃ。城下は安全じゃから戻って来るようにと触れを出した。逃げた者も少しづつ戻って来るじゃろう。再建するのは大変じゃが、皆で力を合わせれば以前よりも立派な城下になる」
そう言うと武将は去って行った。
「もう大丈夫なのかしら?」とおさわが物陰から出て来て聞いた。
「さあ、分からんのう。藤吉郎殿が攻めて来れば、明智の軍勢はここから出て行く。そうなれば、今度は城まで荒らされる事じゃろう。お前たち女子は隠れていた方がいいぞ。見つかったら間違いなく、明智の兵に襲われる」
未(ヒツジ)の刻(午後二時頃)過ぎ、孫一の船が来たと新堂の小太郎が知らせて来た。
藤兵衛は小太郎と共に港に向かった。
港に着いた孫一の船は湖賊たちの船に囲まれていた。
孫一の船も湖賊たちの船も皆、『南無阿弥陀仏』と書かれた旗が風になびいている。
小舟に乗って孫一の船に渡った小太郎と藤兵衛は孫一に今の状況を説明した。
「ナニ、琵琶湖の湖賊など高が知れてるわ。わしらは荒海でさんざ暴れ回って来たんじゃ。鉄砲だってたっぷりとある。奴らに負けるものか」孫一は自信たっぷりに言った。
「しかしのう、敵は多いぞ。しかも、長谷川屋敷から黄金の入った箱を運び出す所が、奴らの船から丸見えじゃ。怪しんで襲って来る可能性が高い」
藤兵衛は心配顔で忠告したが、孫一は鼻で笑った。
「心配するな。わしらの力を見せてくれるわ。ところで、五右衛門はどうしたんじゃ?」
「京都におる。どさくさに紛れて働いている」
「ほう、安土の黄金を配下に任せて、京都で何を狙ってるんじゃ?」
「信長が持ち出した名物のお茶道具じゃ」
「お茶の道具の方が、黄金一万枚より値打ちがあると言うのか?」
「黄金の方が値打ちはある。しかし、名物のお茶道具というのは皆、この世に一つしかない物じゃ。信長が死ねば、その値打ちは益々上がって行く」
「ふん。わしは黄金の方がいいわ」
孫一は強きだった。さっそく、長谷川屋敷の見える城の裏側に船を回した。
湖賊の船の間を抜けながら、孫一の船は移動した。湖賊たちが船の上から、何者じゃと睨んでいたが、孫一は不敵な面構えで船首に仁王立ちしていた。
「あそこから運び降ろせばいいんじゃな?」
孫一は長谷川屋敷を眺めながら、藤兵衛に聞いた。
「降ろすのは簡単じゃ。あの通りに並ぶ屋敷は皆、空き家じゃからな。ただ、問題は長谷川屋敷じゃ。明智の軍勢がたむろしている。奴らに見つかると面倒じゃ」
「ふむ。となると夜、忍び込んで下まで降ろすしかねえのう」
「あるいは、明智の軍勢が去るのを待つかじゃな」と小太郎は言った。
「そうのんびりしてはおれん。今頃、雑賀は大騒ぎじゃ。信長に敵対していた者が大喜びして、わしらの領地を攻めているに違えねえ。さっさと黄金を奪って帰らなけりゃなんねえのよ」
その夜、孫一は鉄砲をかついだ五十人の兵を率いて、長谷川屋敷に忍び込んだ。
驚いた事に長谷川屋敷も荒らされていた。黄金を天主から移動した時は無事だったが、あの後、湖賊たちが忍び込んで暴れたようだった。抜け穴のある茶室も荒らされ、飾り物は奪われていたが、畳の下の抜け穴には気づかなかった。
藤兵衛と小太郎が屋敷内に潜入して調べると、メチャクチャに散らかっている部屋の中に雑兵(ゾウヒョウ)が三人、気持ちよさそうに寝ているだけで明智の武将はいなかった。藤兵衛と小太郎は三人を殺して、井戸の中に投げ捨てた。
孫一らは無事に黄金の箱を湖岸まで運び、夜が明けるのを待った。
朝靄(モヤ)の中に船影が近づいて来るのが見えると、孫一は鉄砲を振って合図をした。
船から小舟が近づいて来て、湖岸に着いた。黄金を積み込んだが、一回で運ぶ事はできなかった。三往復してようやく、すべてを船に積む事ができた。しかし、その頃になると朝靄も消え、湖賊たちが気づき、一隻二隻と船が近づいて来た。やがて、孫一の船は湖賊たちに囲まれた。
「わしらは行くが、おぬしはどうする?」と孫一は小太郎に聞いた。
「港で待っててくれるか? ジュリアを連れて行く」
「この様子じゃと、港に入れるかどうか分からんぞ」
「そうじゃな。いいわ、後で取り行くわ」
「そっちの分け前はどうする?」と孫一は藤兵衛に聞いた。
「どこに上陸するんじゃ?」
「大津じゃ」
「そこで待っている」
「よし、それじゃア、行くぞ」
孫一は小舟に乗って、船に向かった。
湖賊たちは無言で孫一を見ていたが、孫一が船に乗ると湖賊の一人が声を掛けて来た。
「何者じゃ?」
「雑賀の孫一じゃ」
「何を運んだ?」
「弾薬じゃ」
「弾薬を盗んだのか?」
「いや、日向守(ヒュウガノカミ、明智十兵衛)殿よりいただいたんじゃ」
「ほう。孫一殿はまた、寝返ったのか?」
「寝返ってはおらん。わしは最初から本願寺のために働いておるんじゃ」
湖賊らの船から、ドッと笑い声が起こった。
「本願寺のために働いておるのはわしらじゃ。本物の孫一殿なら、琵琶湖に来て、わしらに挨拶しねえはずはねえ。この偽者めが!」
藤兵衛と小太郎は湖畔で顔を見合わせた。
「雲行きが怪しくなって来たぜ」と小太郎は言った。
「危ねえな」と藤兵衛も唸った。
「わしは本物の孫一じゃ」と孫一は叫んでいたが、湖賊らは孫一の船に対して鉄砲を撃って来た。
孫一も負けずに鉄砲を撃ちながら、湖賊らの船の間を突破した。
「さすがじゃのう。逃げられるかもしれねえ」
二人は山の上に登って、湖上の戦いを見物した。
孫一の船は敵の囲みをうまく脱した。逃がすものかと湖賊の船はあちこちから集まって来て数を増し、孫一の船を追いかけて行った。
孫一の逃げた方向が悪かった。正面に細長い島があり、左に曲がらなければ逃げられない。左に方向を変えたが、すでに遅く、また、敵に囲まれてしまった。
孫一の船は湖賊の船に体当たりしながらも突き進んで行った。しかし、四方から鉄砲を撃たれ、火矢を打ち込まれ、ついに、燃え始めてしまった。
「あ~あ、黄金が沈む‥‥‥」と小太郎は悲鳴を上げながら、湖畔に駈け下りた。
「やはり、やられてしまったか‥‥‥」藤兵衛は溜め息をつきながら、首を振った。
火に包まれた船はゆっくりと湖中へ沈んで行った。
湖賊たちが喚声を上げているのが聞こえて来た。
「勿体ねえなア、畜生め!」小太郎は悪態を付きながら、何度も、石ころを琵琶湖に投げつけていた。
「ピーヒョロロ」とトンビが馬鹿にしたように鳴きながら、琵琶湖上を飛び回っていた。
その頃、備中では睨み合いが、まだ続いていた。昨日、一日中、睨み合い、今日になっても睨み合っている。
夢遊は昨日のうちに敵が中山に攻めて来るに違いないと覚悟をしていたが、敵はまったく動かなかった。
昼過ぎになって敵は動き始めた。いよいよ、攻めて来るのかと皆、緊張して敵の動きを見守った。敵の軍勢は西へと撤退して行った。
夢遊らは助かったと手を取り合って大喜びした。
藤吉郎は今朝、暗いうちから少しづつ兵を岡山城へと移動させていた。毛利の軍勢が全員、引き上げるのを見届けてから全軍を退去させた。
毛利の撤退を確認すると、夢遊らは京都を目指した。新しい敵となる明智十兵衛の状況を調べなくてはならなかった。藤吉郎を勝たせるため、正確な情報をつかんで知らせなければならなかった。
七日、藤吉郎の軍勢は暴風雨の中を突っ走って、夜になって姫路城に着いた。
八日は一日、休養を取って兵を休め、九日の早朝、姫路を発ち、十二日には摂津の富田(トンダ)に陣を敷いた。
夢遊らが一足先に、『羽柴殿が毛利と和睦し、大軍を率いて弔い合戦に来る』との噂を流したため、十兵衛の指揮下にいた有岡城主の池田勝三郎、茨木城主の中川瀬兵衛、高槻城主の高山右近らが藤吉郎に合流した。さらに、大坂にいた信長の三男、信孝と丹羽五郎左衛門も加わり、三万五千に膨れ上がった藤吉郎の軍勢は山崎へと向かった。
十三日の申(サル)の刻(午後四時頃)、雨の降りしきる中、合戦は始まった。
天王山東麓の円明寺川を挟んで、激しい攻防が繰り返された。必死の明智軍も手ごわかったが、兵力において倍以上の藤吉郎の軍が押しまくり、日が暮れる頃には明智軍は総崩れとなり敗走して行った。
十四日に十兵衛は落ち武者狩りにあって殺され、翌日、首は本能寺に晒された。
夢遊も大勢の見物人の中に紛れて見物したが、その首は半ば腐っていて、本人と見分ける事は困難だった。
夢遊がお澪と共に安土に帰ったのは、六月の十六日だった。
安土を出てから一月も経っていないのに、安土の城下は信じられない程、悲惨な有り様だった。
安土の象徴だった輝かしい天主がなかった。
天主だけでなく、本丸御殿も二の丸屋敷も焼け落ちていた。
町中は家という家が皆、破壊され、中には焼け落ちている物もあり、完全に廃墟と化していた。
我落多屋の看板もなくなっていたが、店も屋敷も何とか残っていた。
夢遊が二階を見上げるとマリアが手を振り、「お帰りなさい」と笑いながら叫んだ。
夢遊が手を振り返すと、新堂の小太郎とジュリアも顔を出した。
「やっと、帰って来たか。藤吉郎がやったらしいの」と小太郎は拳を振り上げた。
「一時は危なかったが、うまく行ったわ」と夢遊も拳を突き上げた。
藤兵衛がガラクタを踏み分けて出て来た。
「無事じゃったか?」と夢遊は店の中を覗いた。
「はい、何とか」と藤兵衛は笑いながら、ガラクタをまたいで来るおさやの手を引いてやった。
「お帰りなさいませ」とおさやは藤兵衛の隣で、ニコニコしながら夢遊を迎えた。
「おう、おめえも無事じゃったか。しかし、ひでえもんじゃな。一体、誰が天主を焼いたんじゃ?」
「昨日の夕方ですよ。突然、燃え出しましてね。一晩中、燃えていました。幸い、風がなかったからよかったものの、ここも危ない所でしたよ。どうも、北畠中将(チュウジョウ)殿のようです」
「信長の次男か?」
「ええ。城に入ったけど、城内はメチャメチャだったんでしょう。腹を立てて、火を点けたんでしょうかねえ」
「十兵衛がメチャメチャにしたのか?」
「いいえ。明智の軍勢が十四日の朝、引き上げてから、中将殿が十五日の昼過ぎに来るまで、城は無人状態だったんですよ。湖賊どもが城に潜入して、やりたい放題やってました」
「天主にも登ったのか?」
「ええ。一番上まで登って、大声で叫んでましたよ。城内にあった財宝はほとんど、明智が持って行ったので、奴らは金箔を押した襖(フスマ)絵やら、釘(クギ)隠しに使われている黄金やら、手当たり次第に剥がして持って行ったようです。中将殿が入った時にはそれこそ、何もなかったでしょう。中将殿が腹を立てるのも当然でしょうな」
「湖賊がやって来たのか‥‥‥」と夢遊は港の方を眺めた。
「湖賊って、本願寺の門徒なんでしょ?」とお澪が聞いた。
「らしいのう。長年の恨みを晴らしたんじゃろうな」
「凄い恨みだったのネ。城下を全滅にしちゃうなんて」
「本願寺だけじゃねえ。信長を恨み、浮かばれねえでいる者たちの霊が、奴らに乗り移ったのかもしれん」
「そうかもしれないわネ」
「それで、黄金はどうなったんじゃ?」
「残念な事に、湖賊たちにやられて、孫一の船は沈んでしまいました」と藤兵衛は申し訳なさそうに言った。
「ナニ、黄金が琵琶湖に沈んだのか?」
夢遊は驚いて、藤兵衛を見、そして、おさやを見た。
「はい‥‥‥三十箱ばかり」と藤兵衛は言った。
「三十箱? 残りの七十箱はどうした?」
「抜け穴の池の中に隠しておいて、湖賊らが消えた昨夜から今朝にかけて、運びました」
「ここにあるのか?」
「はい」
藤兵衛がガラクタをどけると中から、黄金の入った箱が現れた。
「七十箱というと二万一千枚か‥‥‥まずまずじゃな。よくやった」
夢遊は箱の中の黄金を手に取って眺め、満足そうにうなづいた。
「あたしの分け前はあるの?」
お澪が夢遊から黄金を取って聞いた。
「うむ。そなたにもやらなければなるめえな。世話になったからのう。十箱でどうじゃ?」
「あとの六十箱は?」とお澪は不満そうな顔をした。
「あとはみんな、南蛮寺に寄付するさ」と夢遊は黄金の箱をガラクタで隠した。
「なんですって?」
皆が同時に言って、夢遊を見つめた。
「みんな、寄付する?‥‥‥まさか、本気じゃないんでしょ?」と藤兵衛が目を点にして聞いた。
「もともと、マリアとジュリアが持って来た仕事じゃ。当然じゃろ?」
夢遊は真面目な顔をして皆を見回した。
藤兵衛は呆然としたまま、急に力が抜けたかのように崩れ落ちた。おさやが慌てて、支えたが支え切れずに、二人は倒れ込んでしまった。
お澪が急に笑い出した。
「あなたらしいわ」と言うと夢遊の手を引いて、無残な姿になった小野屋に連れて行った。
「あたしの十箱も寄付していいわ」とお澪は言った。
「そう言うと思っていた」と夢遊は笑った。
お澪は夢遊をかつての自分の屋敷に連れて行った。
床の間の飾り物は消え、襖は破れ、着物や書物が散らばり、お椀や酒のとっくり、腐りかけた食い物のカスまでもが散らかり、ハエが飛び回っていた。
お澪は縁側に腰を降ろすと、「やっと帰って来たわネ。あまりにも変わり果ててしまったけど」と屋敷の中を見回した。
「一人の男が死んで、その男が作った町が消え去ったというわけじゃな。その男を殺した男も殺された。坂本の城下も今頃、湖賊たちが暴れ回っておるじゃろうな」
「そうネ‥‥‥でも、湖賊たちが盗んだ物は一体、どこに行くのかしら?」
「多分、京都の我落多屋じゃろうな」
「あなたもまた、忙しくなるわネ?」
「ただ、残念なのは、信長の奴、名物のお茶道具のほとんどを本能寺に持って行ったらしいからのう。名物が信長と一緒に燃えちまったわ」
「大丈夫よ。燃える前にちゃんと、いただいたから」
「ナニ、本当か?」夢遊は驚いて、お澪を見つめた。
お澪は笑って、うなづいた。「そのへんは抜かりないわよ。今頃、幻庵(ゲンアン)様が目を細めて目利きをしてるでしょ。そのうち、こっちに流れて来るわよ」
「そうか、そいつはよかった。そういえば、十兵衛に虚堂(コドウ)の墨蹟(ボクセキ)を売ったが、無事であってくれればいいがのう」
「へえ、虚堂の墨跡を‥‥‥十兵衛様らしいわネ」
「十兵衛も天下を取ったのはたったの十二日だけじゃったのか‥‥‥可哀想じゃのう。今、思えば、風摩に躍らされただけじゃねえのか。本能寺に晒された首は何となく情けねえ面をしてたぞ。あれは本当に十兵衛の首なのかのう。どこか違うような気がしたが」
「気のせいよ」
「そうじゃな。天下を取った絶頂から一気に転落したんじゃからな。顔付きも変わるじゃろう」
夢遊はお澪と共に鴬燕軒に向かった。鴬燕軒も無残に荒らされているに違いないのに、お澪は風呂に入りたいと言って聞かなかった。夢遊も風呂に入って、サッパリしたい心境だったが、湯殿が無事であるとは考えられなかった。
ところが奇跡か、鴬燕軒は無事だった。辺り一面がメチャクチャに荒らされているのに、鴬燕軒だけが場違いのように、以前と変わらず、そこに残っていた。
「信じられん」と夢遊は『鴬燕軒』と掲げられた門をくぐって、屋敷内に入った。
どこにも荒らされた形跡はなかった。
「一体、どういう事じゃ?」と夢遊はお澪に聞いた。
「与兵衛が守ってくれたのよ」とお澪はニコッと笑った。
「小野屋の与兵衛か?」
お澪はうなづいた。
「どうして、与兵衛が店をほったらかして、ここを守るんじゃ?」
「あたしが頼んだのよ」
「ほう、あいつがのう。わしは苦手じゃったが、わりといい奴なんじゃな」
「うん。与兵衛はあれでも陰流の使い手でね、愛洲移香斎様を尊敬してるの。あたしの言う事は何でも聞いてくれたわ」
「成程のう。それで、奴はどこに行ったんじゃ?」
「気を利かせて、消えたんじゃないの」
「そうか」とうなづくと、夢遊は突然、「オブリガード(ありがとう)、与兵衛」と大声で叫んだ。
「デ・ナーダ(どういたしまして)」と遠くの方から返事が帰って来た。
夢遊とお澪は顔を見合わせて笑った。
湯殿に行くと、湯舟には丁度いい湯加減のお湯がたっぷりと入っていた。
「よく気が利く奴じゃな」
「ほんと」
二人は汚れた着物を脱ぎ捨てると湯舟に浸かった。
「ああ、気持ちいい」
お澪は湯の中で体を伸ばした。
「ここを守ったのは正解じゃったな。まるで、極楽のようじゃ」
夢遊は顔をこするとお澪を抱き寄せた。
お澪は夢遊の顔を覗き、ニヤニヤしながら、「あのネ、ほんとの事、教えてあげましょうか?」と言った。
「なんじゃ、ほんとの事とは?」
夢遊はお澪の乳房を抱いた。
「本能寺に晒された十兵衛様の首なんだけどネ、あれは偽物なの」
「何を言ってる。そなたがそんな事、知ってるわけがねえ。わしとずっと一緒にいたんじゃからな」
お澪は首を振った。
「最初からの約束だったの」
「何が約束なんじゃ?」
「十兵衛様、なかなか、決心しなかったでしょ。あの人、頭がいいから色々と計算して、自分が絶対に不利だって言い張っていたんですって。信長様を殺すのはいいけど、その後の事が問題だったの。藤吉郎様が攻めて来る事は予想できなかったらしいけど、十兵衛様は北陸にいる柴田様にやられると思っていたのネ。やられるのが分かっていて、信長様は殺せないって言ってたらしいわ。そこで、西之坊様は考えて、十兵衛様が柴田様にやられたら、助け出して小田原に連れて行くって約束したのよ。十兵衛様はもう一度、違った生き方をしてみようと決心して、ようやく、うなづいたの。今頃、小田原に向かってるはずよ」
「十兵衛が生きてる‥‥‥」夢遊はお澪の顔をじっと見つめた。
「十兵衛様は死んだのよ。別人になって新しい人生をやり直すんじゃない。あなたのように気ままに生きるのかもネ」
夢遊は顔を洗うと、「まったく、どうなってるんじゃ」と自分の頭をたたいた。
「風摩に翻弄(ホンロウ)されていたのは、わしのようじゃのう。まさか、信長の奴も生きてるんじゃあるめえな?」
「まさか。信長様は死んだでしょ。今更、出て来たって、もう手遅れよ。時代は信長様から藤吉郎様に移ってしまったわ」
「うむ、藤吉郎の天下じゃ‥‥‥奴がどんな世の中を作るか楽しみじゃのう」
「もう戦はいやだわ。平和な世の中にしてもらいたいわネ」
「そうじゃな」
夢遊は湯舟の中に顔を沈めるとお澪の体に抱き付いて行った。
その頃、弔い合戦に勝利した藤吉郎は大軍を率いて安土に来ていた。
焼け落ちた天主を見つめながら、涙をこぼし、「上様‥‥‥」とつぶやいた。
完
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